2010年10月17日 17時49分 | カテゴリー: ツーリング2010

「花の慶次」の時代に出会う・・・わがご先祖もきっとうろうろ

今日は、いよいよ孫たちと友人夫妻とランデブー。なに会合地点は湖の畔に張ったこのキャンプからバイクで2,3分。余裕綽々。昨日頑張って金沢や福井をすっとばして先に到着していたから昼飯でも一緒に食える。とおもったら、姫路や宝塚からくる彼らの到着が予想より遅くて午後になる、という。それなら時間までこの付近をバイクで散歩してよう。

のんびり朝、コーヒーをわかしてきのう途中の道の駅で買ってきたお米パンだかお好み焼きだかわからないサンドイッチを朝食に。湖では朝から釣り人が竿をおろしているが、はて、魚を釣り上げたシーンを一度もみたことがないな。とおもってたら本当に釣れないらしくていつのまにか誰もいなくなった。湖面は穏やかなんだが不漁なんだ。

どれ、もう10時半だ。テントをたたんで出発するか。この1週間近く、雨にぬれてないから畳むのも楽だね。荷物ボックスにテントをベルクロテープでとめてゴムバンドをかける。こういうものがホームセンターでびっくりするぐらい安く買えるのはありがたいな。以前は、ツーリングバッグをゴムバンドで止めていたが、自分のようは下手くそはいつゆるむんじゃないか、とヒヤヒヤだったもの。

さて、まずは湖にそった路をゆっくり流してみる。いい景色だ。桜並木だね。シーズンにはすごいだろう。花も見物の車も。大渋滞必至だな。でもいまはスイスイ。ときおりサイクリングやリック背負ってウォーキングの夫婦連れなんかがいるだけ。水鳥がけっこういるなあ。大きいのは青鷺かな。カワウもいるようだ。

遊歩道のつきあたりが菅浦、という小さな集落。昔は陸の孤島で淳仁天皇に仕えた人々の子孫という。え、淳仁天皇って、なんと新羅征伐とか天武天皇とかあのころじゃなかったかな。760年・・・て、何時代よ(^^;)。平安時代が「泣くよ坊さん794年で平安遷都」だから、その前に奈良から逃げてきたってこと(・・?)。以来、ずっとこの地に住んでいた人たちなんて想像もつかないぜい。神社の資料館みてくればよかった。(日曜だけオープン)。

その 菅浦集落の手前の入り口から急坂がつづき、奥比叡パークウェイの見晴らし台にいたる。すでに結構な数のバイクが駐まってた。ここからはすぐ眼下に合戦で有名な賤ヶ岳が見える。へえ、こんなところだったのだ。頭の地図とだいぶ違うな。なんだかえらく低い山だわ。あの合戦は秀吉と柴田勝家の戦いだったかな、それとも信長だったか(・・?)。どうも日本史の知識がいい加減であるな。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長とその嫡男で当主の織田信忠が本能寺の変で重臣の明智光秀によって殺害されると、その後間もない山崎の戦いで光秀を倒した羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つに至った。6月27日(7月16日)、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ(清洲会議)、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立した。結果的には同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したためにこの後継者問題はひとまず決定した。さらに秀吉は翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を執り行い、8月には京都奉行として自らの一門筋である浅野長政・杉原家次をすえた。勝家や信孝らは秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱いた。

そうであったか。秀吉が勢力を固めた戦いなんだ。おっときのうガスを入れてないからそろそろガソリン入れるところ探さなきゃ。で、あちこち有りそうな集落をさがすが、琵琶湖北岸はもう農村風景で案外ないや。これは国道にでなきゃいけない。きのう福井から来た道に戻ろう、とおもったが行き止まりの集落に迷い込んでしまった。ふと道端をみると崩れたちいさな仏像みたいなのが100以上も整列している庭が目に入った。なんだろ?お寺ともおもえないし、正面にみえる稲荷神社とも離れすぎ。

バイクを下りて見る。仏像の大半は顔も判読できないほど摩耗しているが、どれもが似た形だけに一種異様な迫力。それもほとんどが真っ赤な前垂れを掛けて整列している姿は軍隊の行進のようだ。で、側の説明を見て驚いた。この里は、賤ヶ岳の戦いで負けを覚悟した柴田側の軍士が家族を逃した隠れ里で、この仏像群は戦死した武士達の家族が菩提を弔うために立てたものだ、という。

うーん、スゴイ。なにがって、まず負け戦を覚悟して家族を逃がしたうえで、みな戦死必至の戦いに赴き、かつ戦死したという事実。賤ヶ岳の戦いは半年にわたる大合戦だったが、次第に秀吉側に寝返る武将が増え、冬の間福井から動けなかった柴田勝家が敗れたわけだが、越前福井から、この隠れ里ともよべないほど合戦場にほど近いところになぜ家族を逃したのだろうか(・・?)。いくつか疑問は残るが、この行列はなにやら、死に向かって粛々と行進していく柴田軍団そのものを彷彿させる。おれだったら、自分も逃げ出す算段をするが・・・。当時の豪傑たちはそんなことは考えもしなかったんだろうな。マンガでいうと「花の慶次」の時代だもんね。

そういえば、うちの先祖は、加賀藩の下っ端侍だったというから、ご先祖様も前田家家来でこの合戦に参加していたのだろうか。前田家は最初、柴田側だったがのちに秀吉側についたわけだからきっと賤ヶ岳付近を行ったり来たり、ブツブツ言いながら一族のだれかはウロウロしていたにちがいない。(手柄は立てなかったのだろうな。えらくなってないところをみると(^^;))。

このあと賤ヶ岳と余呉湖をまわって、ふたたび湖岸についたころ、ようやく関西・中国勢も到着。以後は赤貧型キャンプから一転、豪華大宴会となって、夜は更けていったのである。

執筆者: Jun