2010年10月14日 20時54分 | カテゴリー: ツーリング2010

天の夕顔の道〜詳しくは知らない方が花がある〜

平湯を8時頃出発。神岡に昔から変ななまえだなあ、とおもっていた「カミオカンデ」なるものが分かり易く説明した道の駅がある、という。平湯から30分ほどでいける、というからいってみようとおもったのが縁で「天の夕顔」なる文学作品にでっくわしたよ。

ずっと下り坂でトコトコ高原川とかいう川沿いに下りていく。越中東街道の41号線は富山ー高岡をむすぶメインルートで交通が激しいというので避けたいが、その手前に「宙ドーム・神岡」ってのがあるんだね。地図をよくみると少し戻ると、山道が立山方面に北上しているから帰りはこれをのぼって富山側にでられるし。

宙ドームなんとか、はまったくの期待はずれ。食堂と自動販売機と、みやげもの屋が大半でわずかにちょいとカミオカンデのことについてかかれた新聞記事の拡大写真とノーベル賞受賞者のサイン、それにあのランプがひとつあるだけ。あとフツーサイズの写真がなんまいもピンでとめてある。これならちょっとした理科ファンなら誰でももってそうなもんでないの。わざわざ来るほどのことはなかった。

ま、こういうはずれもよくある事さ。で、山道もどって有峰湖というダム湖を目指す。それを越えると富山側の立山付近にでられるのだ。これがよかったねー。山道をのぼっていくと一種の高原の村落にでる。浅い谷間の農村風景。のどかな昭和をかんじさせてくれる景色だ。途中でメシ用に100円の焼きそばとおにぎりを買ってきたからどこかで食べようとおもっていたら「天の夕顔の道」「不二樹浩三郎の碑」なんてのがとつぜん、道端のサボテンの様に立っている。なんだこりゃ?「天の夕顔」って、むかしそういえば聞いたことはあるぞ。

中学生のころいまなら「文学オタク」の気味がすこしあったから、名前だけしっていた。なんかおもしろそうな題名だ、と思ったが図書館になかったのでそのまま記憶の彼方へいっちゃったけどね。

 

で、碑を読むと「同志社大学の学生だった不二樹浩三郎は大学時代にであった女性をわすれられず、自らを高めるため、2年間この村の中に小屋をつくって住んだ」とある。 大恋愛小説、じゃ中学校図書館ないはずだわ。そして小屋の後が山腹の山林の中にあるって粗末な木の手書き標識がある。

山道のオフロードをそろそろ走りたかったからそのままセローで看板の矢印のほうこうに乗り入れていったが、50メートルぐらいで、本当の山道になっちまって、溝があってバイクじゃ無理。下りてメットかぶったままあるきはじめたが300メートルって結構長い。息切れしそうになるころようやく木立の中に看板をみつけたが、しかし、この場所、街道がまったく見えないほど離れてるし、道だって踏み跡程度だよ。しかも看板の説明によると、ここに3畳程度の小屋を村人に作ってもらって住んでいたというのだ。 おいおい、どうかんがえてもこりゃ世捨て人。地元の人から見たら頭のオカしい都会の青年だよ。あまり村の近くに住まれると気持ち悪いけど、資産家の息子らしいから、このへんならいいか、てなもんで体よく隔離してたんじゃないの?

東京へもどってwikiなんかで調べるとやっぱり奇人の一種で、この話そのものは中河与一の小説で一躍「日本のウェルテル」とかなんとかいわれて昭和13年出版されたときには話題になったらしいが、この話をした本人は按摩になっていて、その後、中河に「印税をはんぶんよこせ」とか、中河家の犬が死んだり、裁判を起こそうとして銭がなかったとか、奇怪な人物。wikiによると「『名作「天の夕顔」粉砕の快挙──小説味読精読の規範書』(1976年)と題する書物を自費出版」とある。 どうみても普通人じゃないね。なんでも中河に話したのを小説にされて、「俺にも銭よこせ」だか「共著にしろ」とかいうて裁判まで起こそうとして銭がなくてやめになったらしい。

こんなのにネタをもらっただけでいいがかりをつけられた作家こそ良い迷惑。取材して記事にしたら金よこせといわれたら報道者が困るように、作家だって困るよ。だが、その中河も戦時中に警察に仲間を売ったとか噂を立てられて、戦後はわすれられたか無視された存在だったようだ。もっとも今ではwikiにも

「太平洋戦争中の中河の行動については長年黒い噂が囁かれ、そのために戦後の中河は文壇的孤立を余儀なくされた。その噂の内容は、中河が戦時中、左翼的文学者のブラックリストを警察に提出して言論弾圧に手を貸したというものだった。これに対して中河の門人の森下節は、この噂は平野謙や中島健蔵が意図的に流したデマに過ぎなかったとの調査結果を発表している。森下によると、平野や中島がこのデマを流したのは、中河に濡れ衣を着せることによって自分たちの戦争協力行為を隠蔽するためだったという」

などというモノスゴイ記述がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%B3%E4%B8%8E%E4%B8%80

こういう「天の夕顔」という風雅なタイトルとは無縁のえらく生臭い確執があったらしいが、そおいうことは一切ふれてないところが、この碑。まあ、そんなこと書いたら「天の夕顔の道」というキャッチフレーズのイメージが帳消しになっちゃうな。

ま、とにかく「恋の思い出をわすれるために」、だろうとなんだろうと、今となっては2年間も籠もるような場所とはとても思えないが、昭和の初め、なんてのは私にはワカラン世界だから、明治36年に「巌頭之感」を残して一世を風靡した藤村操の伝統を引く当時の文学青年としては、あるいは”マトモ”だったのかもしれない。「恋愛をわすれるために自己を高める」なんて発想、今の人には想像できるかな。

 

ただ私も中学生頃は「文学青年」というとなんかカッコイイ存在のように思っていた。いまじゃ、そんな言葉も死語となったな。マンガ青年やゲーム青年はごろごろいるが・・・そして元文学青年にあこがれたバイク老年もおるわい。なにこの年になりゃわかるがね。当時の文学青年もいまのマンガ青年も似たようなモノにだろうて。

この日は高岡まで走って、わがご本家に一晩厄介になる。地酒で歓迎されて飲み過ぎてしもたがな。そうそ、立山側でやっと今年初めての紅葉をみたっけ。

執筆者: Jun