2010年10月16日 08時57分 | カテゴリー: ツーリング2010

世界一のベンチと岸壁の母 長い戦後とどっちがロング?

夜中どしゃぶり。炊事棟の屋根の下に貼ったテントの内側が稲光で真っ白に浮かび上がって寝られない。それでもまだツキがあった。午前2時頃から約2時間以上、屋根をたたきつけた土砂降りが4時過ぎにぴたりと止んだ。雨の間中、鳴くのをやめていたムシがまた元気にリンリンじーじーと合唱はじめたのでテントから這い出してみると薄明るいじゃないの。今日は雨カッパツーリングを覚悟したのにこれなら晴れそうだ。

無人受付に不釣り合いなほどでかく張ってある値段表みるとここは「 一泊2000円電源つき」なのね。電源なんぞいるってのはカーキャンプの専用なんだ。貧乏ライダーはおよびじゃない。だから平気で締めちゃうんだろうな。ウィークデーに客なんぞくるはずがない、と。

こちらもロープで客を閉め出すようなキャンプ場に2000円なんぞ払う気は全くないが、しかし、昨日お世話になっておかげで雷雨もしのげたから、まあ、峠のお地蔵さんのお堂で一夜あかした旅人ぐらいの感謝の念はあってしかるべきだろうな。てんで、500円玉1個だけおいて朝6時15分に出発。これは自分にとっては今年一番の早さ。

旅は早立ち、とはいうけどテントを乾かしたり、朝メシ作ってたりすると2時間ぐらいかかるからなかなかムズカシイのだ。それが屋根の下にテントを張ると夜露にもぬれないからね。

早い出発。早朝のすずしい海風をうけて漁村の中をかけぬける。散歩中の老人たちとあうと頭をさげて挨拶。あちらも同じ爺仲間とみてか、あいさつを返してくれるのが気持ちよし。まばらにはえたヒゲの効果ならん。

能登半島も最北だから、海風避けに竹のようなものを箒をさかさに塀のようにたてかけてある。間垣というのかな。ちょっとした風情、なんだがよくみるとみなあたらしくて、観光用に無理して作ったのかもしれない。

道路は貸し切り状態で、間垣の漁村をつぎつぎに駆け抜ける。いいねえ。とても日本とは思えない快走。やがて崖っぷちで鹿をおいつめて転落させて猟をした、という「娑婆捨ての岬」なるところにでた。朝日が射してきて水田も黄金色に輝いて、道端にお地蔵さんなんかあったりして、いいね。 このあと、「ゼロの焦点」のロケ地や志賀の原発の側を通って、海岸の砂浜をはしれる渚ハイウェイで、海岸の屋台で調子に乗ってえらい高い蛤とイカげそ、お握りで早めの昼食。1500円もしたよ。蛤なんてシジミとみまごうちいささだし(^^;)。でも、明るい話し好きの屋台のおねえさんがいたからまあ、いいことにしよ。ゆうべのキャンプ代はらうよりよほどマシだわい。

ここから内灘経由で金沢をかすめて、高速にのって琵琶湖周辺へ。湖畔のキャンプ場についたのが5時半。でもテント場は琵琶湖まで2メートル。水道トイレで500円。ここが民営通年営業というのはすばらしい。サイトとしてはわがキャンプ史上最高のロケーションの一つだな。ただテント張ってビール買いに行ってるうちに夕焼けがおわってしまったのが残念。夕焼けみてビール飲みたかったんだが、そううまいことばかりはないのである。

★岸壁の母実話★ 能登半島の志賀原発を通過したあと、「道の駅・とき海街道」だったかに立ち寄って、かの「岸壁の母」こと端野いせさんがこの町の人だったと知る。もっと驚いたのは、実は戦死した息子さんはそのあとソ連に捕虜になり、中国の共産軍に加わり、いま上海で生存している、というニュース。新聞の切り抜きに張ってあったけど、こんな記事読んだこと無いなあ。2000年の夏、っていうからまだ真面目に新聞読んでいた頃なんだけど、なんかで抜けちゃったんだな。

で、この人、結局、56年(1981年)に母親がなくなるまで、「知っていたけど帰れなかった」で会わず仕舞い。「有名な母のイメージが壊れるから」と新聞にはあるが、まさか上海暮らしでも、そのころはもう手紙なんか自由に出せるようになっていたわけだからそれだけとも思えない、もっと深い事情があるんだろうけどねえ。あまりに強い「母の愛」に辟易してたとか(^^;)。べつに俺は女性週刊誌の編集長じゃないからどうでもいいんだけど、当時は特ダネ競争とかやったんだろうな。京都新聞の特ダネか。なるほど、この人、もともとは函館出身で養子なんだ。文春が2005年にとりあげているんだね。つまりこの話は「日本の常識」であるな。なんとわしゃ、常識に欠けるおっさんだ。

ま、ここには「世界一長いペンチ」なんてばかばかしいものがある、ときいて寄ってみたら、ベンチのうしろに子供達の手形をおしたタイルがびっしりしきつめられていて、これはなかなかよかったよ。大きくなってまたここを訪れる楽しみがあるだろうし、のこっていれば一生楽しめるシカケだから。この手形とのコンビでこのベンチはなかなか素敵な企画になった、とおもうわさ。そのベンチの後ろ側に、この岸壁の母の銅像が建っていて、いっぽう、道の駅にあるのは黄ばんだ新聞の切り抜き。やがて切り抜きは忘れられて、銅像だけが美談として残る・・・のがこれまでだったが、なに、いまやネットの記事があるからそいうことはなさそうだ。

執筆者: Jun