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2018年11月 の投稿一覧です。

2018年11月21日  | カテゴリー: 総合 | 投稿者: Jun

 猫撮影用に一眼レフをこうてしもた。もうデジカメ写真はスマホでええ、というのが持論だったんだが、黒猫の子猫が来てからどうもうまくない。真っ黒だからよく映らないんだね。それにコンデジだと、構えてるうちに相手が動いてしまうからどうにもならねえ。面白い動きは一瞬だからタイミングがまったくとれない。スマホでもダメ。そんなに長く構えてられないから、結局、ぼけぼけになる。動きが早い対象は万能のスマホといえども苦手らしい。

そうこうしてるうちに、黒猫はどんどん大きくなっちまう。うちにひと月半前に来た時は700グラムだったのが現在1500グラム。あと半月経ったら若猫で2kgになっちまう。

 それまでに子猫時代の写真を撮りたいのだ。で、たどりついた結論が一眼レフ。あれなら一瞬でシャッターがおりる。というても今更、今の重い巨大な(しかもバカに高いw)カメラはいらないから、ネットで中古をググってたら、何とま、10年前のデジカメならズームレンズ付きで1万円ちょいぐらいであるわ。誰かのブログの使用レポートに「女の子が猫を撮るのにいい」とか買いてあった。なら、これでいいや。


 アマゾンで中古を見ると、ニコンD40、18mmから55mmのズームレンズ付きで12000円なり。信じがたい値段だね。600万画素ってなあ、今時のスマホの半分ぐらいの数字だが、なに、アップルがだした30万画素のデジカメから使い始めて、それが原点になっとるから、「当時の20倍もあるじゃん」で問題無し。いちいちカードをパソコンに写して、フォーマットを手作業で変換したりするのも、当時にくらべりゃ何ということはない手間に過ぎない。それなのに、この高性能でコンデジの一番安いのとあまり値段がかわらん。

 もう部品がなくて、修理ができないというのがこんなに安い理由の一つらしい。あとは発売当時よく売れて、中古がだぶついているらしいな。

 これが壊れるより、多分、こっちがあの世に逝っちまう方が早かろう。問題はこっちの耐久性でカメラの耐久性は問題無し。こわれたらまた1万円で別のボディを買えばよろしい。
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 光速のアマゾン、夜注文したら次の日の昼前に届いた。すごいねえ。中古品で説明書こそないが(どうせ役に立たんからいらん)、傷ひとつないピカピカではないか。

 問題は重さ。レンズ込みで750グラムもある。本格的な一眼レフの重さに比べれば半分以下だろうが、こちらはもう老人だから十分重いのである。試しに散歩に肩にかけて歩いてみたら、重いのなんの。スマホにくらべると鉄アレイを持っていくようなもんだ。

 この解決法は、自分の体重を750グラム減らすしかない。というのでこの4日間、毎日1万歩ずつあるいて体重を減らしている。寝る前の値で69kgが目標。現在71kg。あと2kg減らすには、この運動量で1ヶ月かかる。まあ、子猫の写真も撮れるし、一石二鳥だ。

 下の写真がスマホと一眼レフの違い。あまり違わない?そりゃそうだ。撮影者の腕は変わらないのだもの。写真は撮影者の腕で決まるのであって、カメラで決まるのではない。カメラのプロ達が、カメラ談義で盛り上がっているのは、ありゃ皆、腕がいいからなんですわい。同じ猫を撮るのに、iPhoneは20枚ぐらいとってやっと一枚がこれ。一眼レフは一度でこれが撮れた。撮影者が楽か否かが猫一眼レフの良さなのである。一万二千円プラス予備電池と説明本で15000円はなかなか良い買い物であったわいと、自分ではおもとるですわい。あはは。


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2018年11月16日  | カテゴリー: 総合 | 投稿者: Jun

 さて、F君が今も健在でここに住んでいることは分かった。が、その場合の後のことは何も考えてなかった。なんとなく前庭で水撒きでもしててくれたら、「リビングストン博士ですか?」方式で声をかけられたんだが、そもそも、田舎じゃあるまいし、東京の世田谷でそんな展開はまずありえないわ。

 はて、どうしたものか? いきなり40年以上前の知り合いが訪ねて来たらどう思うだろう? こっちが懐かしいと思っていても、相手はそう思ってるとは限らないではないか。迷惑かもしれん。金でも借りにきたかとか思われるかなw。もう「何ちゃん、あそぼ〜」という歳じゃないんだっけ。う〜ん。

 しかし、だからと言うて、ここまできてそのまま帰るというのもアホらしい…こんな様々な思いが脳みそを駆け巡ったが、体の方が先に反応。「まあ、ええやんけ」と指が勝手に門柱の呼び鈴を押していた。うまくしたら本人が出て来るやろ。

 ところが「はい?」というドアホンから返ってきたのは意外に若々しい、というても落ち着いた女性の声。…あ、はずれた…こりゃ奥様に違いないよ。そりゃそうだ。我が家だってドアホンが鳴ったら、まあ家内がでるわいな。0,5秒ほど困ったが、なんとか「Fさんはご在宅でしょうか?」という言葉を絞り出した。「でかけております」と言う。あら、やっぱり、とがっかりしたが、おお、元気で生きとる、よかった〜というホッとした思いも同時にきたね。

 これで本日のポタリングの目的は100%達成。マナスル登頂を果たし頂上に日章旗をたてたようなもんだ。しかし、はて、この先、奥様とどう話を続けたらええもんか?シミュレーションゼロだよ。 またもや約2秒絶句。それでも、もうええ歳をした大人であるからなんとか乗り切った。

 「そうですか。実は私、その50年ほど前に、Fさんと一緒に台湾に行ったもので、その昔の住所録がたまたま出て来たもので、ひょっとしてまだ当時の住所にお住まいではないかと、自転車で散歩がてら小金井からきたもので…」と一応の説明をした。奥様は「小金井から?それは…」と驚かれる。まあ、通常、自転車で来る距離ではないからねえ。

 で、当時、中国語を一緒に勉強していたことをお話しすると、「中国語は今もやってます。今日も新宿へ出かけておりますが、その用事で」という。おお、40余年を経て、彼もまだ中国語の勉強をやっとるんだ。今尚、同好の士であると知って「それは素晴らしい!」という言葉が勝手に飛び出した。「では、お帰りになったらよろしくお伝えください」と言うたんだが、はて、ここまで来ることばっかり考えてその先のことはなんも準備なし。名刺も持っておらんがね。

 で、シドロモドロでインターホン越しに自分のケータイの電話番号を伝えて、「もしFBとかおやりなら、たけうちじゅんで検索してくだされば’」というと「いえ、そいういうのはやらないとおもいます」ときっぱり。うん、大人でネットやってるのは3分の1だから、彼が多数派なのである。そっちは諦めて、もう一度、「よろしくお伝えください」と申し上げて、逃げるようにペダルを踏んでその場を離れた。それ以上お話をしていると、奥様も表に出てこられるかもしれないし、そうなったら、50年ぶりの友人の会ったこともない奥様に、もうわしゃ何を話してよいかわからなくなっちまう。奥様にしてみればなんだか変な人が来たと、さぞ驚かれたことと思う。

 我ながらちょっとアホみたいな訪問にあいなったが、まあ、こんなもんだ。F君が今だに覚えていてくれるかどうかもようわからんのだから。

 かつて、関西育ち、世界を一周してきたえたヒッチハイカーの図々しさもなくなっておるなぁ、まあ年寄りだからこんなもんだわさ。東京生活が、大阪暮らしより3倍以上長くなってしまって、だいぶ性格が変わってしまったのかも。

 帰路は、適当に下高井戸をすぎて北上して、玉川上水を三鷹のジブリの森あたりへぬけて戻る。玉川上水は30年前よく走っていたが、三鷹駅の南は知らなかったがいい道だった。若けりゃ走りたいが、まあ、じじいだから自転車でもよしとしよう。途中、結構な陸上競技場みたいな公園があったりしてとてもよい。また来よう。
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 案ずるよりなんとか。F君からはその日の夜にすぐ電話があり、互いに40余年ぶりに久闊を叙し、K君も交えて近々会うことになった。一枚のボロ名簿から、よくぞ辿り着いたぞ、自分。褒めてつかわす。w(終わり)





 

2018年11月13日  | カテゴリー: 総合 | 投稿者: Jun

 小金井駅わきの小金井街道を南下して、東八道路を左折しても、そのまままっすぐ甲州街道にぶちあたるまで進んで左折してもいいんだが、それでは大通りばかりでつまらないし、騒音でちっともiPhone経由の中国語ストリーミングが聞こえない。

 で、野川公園の東の端っこから野川沿いにあるサイクリング・歩行者専用道を行くことにした。途中、保存されている水車小屋とかあって、なかなかええコース。深大寺の南をかすめて京王線の柴崎国領間を抜け、小田急線の成城学園終点まで行くと二子玉川までずっと続いている結構な散歩道。昔と違って今はこういうのが結構あちこちにあるのが、東京成熟の証拠だな。

 今回目指すは永福町から明大前付近なので、そんなに南下せず、最初の中央自動車道とクロスするあたりで左折して東に向かう。となると、同じ方向だから30分もしないで、結局は甲州街道に出てしもた。まあ、ええか。永福町、下高井戸まではこれで行こう。

 永福町には中学生の後半、わずか1年半の短い間だったが住んで居たことがある。大阪から転校してきたから、今思えば結構、転校生として「いじめ」に遭っておった。

 相手は当時、やっとみつけたボロ借家の近くの英語塾の経営者の息子で、お小遣いをたくさんもらって、それを使って数人の子分をつくっていた少年であった。どうも転校生の自分の成績が彼よりよかったのがきにいらなかったようだ。あるいは彼の飼っていた犬が、うちにまぎれこんできて餌をやったら、私に懐いてしまったのが気に入らなかったのか、、言葉遣いが「関西弁」なのをしきりにバカにして、相手にしないでいると、その子分がこれみよがしにチェーンをふりまわしてみせたりした。しかし、河内は八尾の近くの幼稚園育ち。文化背景には自信満々なので、なにをバカされているのかようわからず、「東京のやつはアホなんか?」と逆にバカにしたから、ますます連中はエスレートした記憶。しかし、もともと彼らがクラスのお客様みたいなもんだから、あまりたいしたことにならなかった。

 クラスのヒエラルキー的には、東京は大阪より「クラスの中の成績」で決まっていたようなところが強くあった。例えば、試験の答案を返されても、クラスメート連は、絶対他人には見せようとしなかった。そのくせ、こちらの答案は何点とったかとかしきりに気にするのである。自分の成績は特別に良くもなかったが、机の上にそのままほっといたから。次々に見にきよる。しょもない連中やなあとおもった。ある時、教師が「東京に来てどう思うか?」と言うので、率直にこの話をしたら、ますますクラスの中で嫌われて仲間外れになってしもた。まあ、そんなこんなで、仲良くなったのは、当時、西部劇映画と銃器が大好きだったオタク少年だけだったな。

 今考えれば、大阪人だ、言葉が変だ、とかでバカにした風を装ってい居たやつらは、親が地方から上京してきて、必死になって東京人のふりをしておった連中が多かったような。また、高度成長期になって、それまでの”古き良き昭和”で分け隔てがなかったところへ、「成績による分別」というシステムが導入されかけていた頃でもあった。東京は多分、大阪よりそれが進んでいたのだろう。そこへ転校して来た生意気な変な言葉を喋る奴が、自分たちより成績がいい、そしてこれみよがしに試験答案を隠そうともしないのは許せない、ということへの反発だったのかもしれない。私より成績のいいのは3、4人いたのだが、彼らの1日の勉強時間を聞いて、自分の倍もあったのでびっくりした記憶もある。ただ、この中学時代の経験が「東京人」に対する反感と偏見になってしまって、以後、本当の東京育ちの人々の良さを知るのが随分おくれてしもた。

 ずっとのちになって、本当の東京人はなかなか控えめな洗練されたところがあって、関西のストレートな明るさとはまた違ったユーモアのセンスを持つ人々だと知ったが、当時の自分にはわからなんだ。今ごろF君に会いたくなったと言うのも、彼もまたそういう人柄だったからだなあ、そう、一昨年なくなっちまった陽気でシャイで暖かな東京人だったK氏にどこか似てる。

 てなことを、ジジになった今、なつかしくおもいだしておるうちに明治大学の建物が見えてきた。このあたりも中学時代は高速道路なんかなかったから、スッキリして居たんだが、今は高速の下になってしもて薄暗いねえ。

 明大前でiPhoneを語学ブルートゥスモードから、地図&ナビモードに切り替える。いくつかの小道と路地をアミダくじのように右に曲がり左に降りていくと、あっさり10分ほどで該当番地に到着してしまった。世田谷ちうのは小道が入り組んで、番地が複雑で世論調査員泣かせだ、と一昔前に言われて居たの嘘みたい。

 その番地にある家はごく普通の東京の街中住宅。表札は姓は同じだが違う人の名前が書いてある。そういえばF君は次男だったなあ、とふと隣の表札に目をやるとまさにF君の名前があるではないか。ドンピシャに予想が当たった。まだ健在なのだ。はるばる来てよかった。(つづく)

 


 

 

2018年11月12日  | カテゴリー: 総合 | 投稿者: Jun

 ばあさん悲願の台所工事をすることになった。最初はガス台を交換する程度のはずだったんだが、ガス会社のショールムに行って、まんまとセールスの口車に、自分からのっかっちまって、台所全改造する話になってしまった。

 まあ、ばあさんは昔から、それが夢だと言うておったし、あの世に行くまでに一番時間お世話になる場所の一つが台所だし、自分も最近では、結構料理好きになっちまって、調理台は低すぎるし、火口は二つでは足りないから三つ欲しいとか…ってんで、しょうがないねえ。

 で、その間台所の品物を避難させるために、わしのゴロゴロしてる部屋を片付ける羽目になったから、この一週間は押し入れから本棚の整理まで大忙し。いらないものをどんどん捨てているうちに、古いノートから一枚の青焼きの紙の住所録がポロリと出てきた。なんと1972年の神田のN学院時代のもので、カードに貼り付けてあったセロテープは黄ばんで粘着力がなくなって剥がれている。それでも一応、名前から住所、電話番号まで読める。当時の青焼き技術はりっぱなもんだ。コピーは確か一枚20円以上かかったが、青焼きはその4分の一だったから、謄写版に代わって結構つかわれておった。まるで”古文書”だわい。
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 中国語教育で知られたN学院は事情があって一年しか行かなかったが、当時、神田の内山書店の2、3階にあった。確か、今の日中会館の使用をめぐって日共系と中共系のセクトが殴り合いの喧嘩をして、いられなくなって内山書店に間借りしていたのだとおもう。小さなビルの3階にある狭い教室だったが、本気で中国語をやろうという20歳から25歳ぐらいの社会人の生徒が多くて、それぞれに気合の入った勉強ぶりだったから、大学の眠気を誘う授業とは違っておもしろかった。

 ボロボロのその住所録を見て、誰彼の顔を思い出した。特に一緒に台湾に旅行にいったF君とK君はどうしておるかしら?名簿の多くのメンバーは、当時は若い”上京人”が多く、あるいは実家から通ってたお嬢さんだから、今はもう当時の住所には住んで居ない。しかしF君なら東京生まれの東京育ちで、世田谷に住んで居た。ググってもわからなかったが念のため画像検索をかけると、お父上の何周忌の集まりで挨拶してるじゃないか。2年前らしいから、今も健在の可能性が高い。

 東京の知り合いで父親が家を持っている場合、子供達がその土地を分けて住んでるケースは結構多い。これならこの住所を尋ねれば、少なくともまだ誰か住んでるかもしれないな。世田谷ならそう遠くもないから自転車散歩のついでに探してみようか、とおもっていたら翌日は穏やかな晴れで散歩日和。来週から台所工事が始まると家に居なきゃ行かんから、でかけてみるか、と自転車で、井の頭線の明大前あたりを目指した。

 小金井から明大前は、三角形の長辺コースだから、見かけほど遠くない。府中までいって甲州街道沿いに行けば、まあ、ゆっくりいっても1時間半ぐらい。おまけに昔と違って、今はスマホとグーグルマップにナビというありがたいものがあるから、探すのに苦労はいらない。自転車にセットして中国語講座を聴きながらいけばちょうど一週間分勉強することができそうだし一石二鳥であるわいな。(続く)