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2017年05月20日 19時27分 | カテゴリー: 単車

バイクに捧げたもの

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( 弟が私が卒業後にポンコツYDSをここまで仕上げた労作 )

いまの言葉でいえば自閉症だった私が、学業で劣ったのは早生まれによるもので低学年のうちだったと思っていた。

しかし通信簿には中学二年生になっても、担任の先生のコメントに努力してないと書いてあった。

県内では名門といわれた進学校に、まあ上位で入れたのだから、追いついていたと思っていたのだが。

滑り止めの高校の模擬試験では300人台の受験生のうちの順位は、わが目を疑う一番だった。後にも先にも、ものごとで一番というのはこの時だけだから驚いた。

しかしクールな数学教師による、努力がないとの言葉は50年たった今でも胸に響いた。

もしかして、滑り止め校の一位は夢だったのではないかと、そんな疑念が生ずるショックな文面だった。

入学したはいいがそこは進学校、周囲はみな進学する積りなのに驚いたのは私の認識不足だった。

そのころの農家の経済状況は推して知るべし、暗黙のうちに国立大学で下宿なしという選択肢しかなかった。

一年生のうちはまだ上位にいたが、二年になり当時合格率一割未満という自動二輪に合格したのがいけなかった。

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( ランペットCA1B 美しいスタイルが好きだったマフラー斜めにしたのは若気の至り )

そのころは自動二輪免許で軽四輪も運転できたから得意だった。バイクもスポーツカブとかランペットを卒業し、クズ屋にあったヤマハYC1175ccを3000円で買い、楽に100kmを超えるパワーに狂喜した。

次には私の人生を変える存在、ヤマハの宝刀YDS1のポンコツ、持病の一速がイカれてキック不能、始動は推し掛けしかできない。しかしさすがに腐っても鯛で一万円した。これをミゼットで取りにいった嬉しさは忘れられない。しかしこれをどうやって修理するかというテーマを抱えた。

他にも4ストロークVツインシャフトドライブのライラックLS18実用車が友人価格の800円。これをスポーツタイプにしたくて鉄管マフラーにしたりYD1のダブルシートつけたり、その後の改造プランで頭がいっぱいだった。

次は4ストロークOHVシングルのメグロS3はさすがの老舗の造りで、たしか3000円だったがピカピカになった。

しかしこれはホンダドリームCS71のアップマフラーの豪勢さに目が眩み交換した。オイル下がりのするパワーのなさ、ふわふわサスに幻滅したがあとのまつり。目利きのバイク屋はアホなトレードを言ってきた高校生にニンマリしたことだろう。

雑誌でみた逆ハンがブレーキによるものだと思っていたらパワースライドなのだと知った驚き。。この時はひとつの人生の転機になったというか、バイクのライディングに目覚めたときである。

夜だったがさっそく小学校の校庭に行きトライしてみた、その時はまだセルペットだったので50ccでパワースライドするはずがない、しかし思い切りバンクさせると僅かずつ後輪が流れる。校庭なので前を見ずに、ハンドルが逆に向くかどうか見ながら走るというダサいアホだった。しかしそのささやかな逆ハンが人生初体験という記念すべき夜だった。

のちに250のYDS1ではマシンが立っていようが三速あたりまではどこでも後輪が流れ出すセクシーなパワーに酔いしれた。

そんなこんなのバイクの官能が怒涛の如く押し寄せてきたら17歳の高校生の頭に学業の入り込む余地があるはずもない。

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( ノートに書いてあった逆ハンのイメージ ゼッケン4は鈴木忠男ヤマハワークスライダー )

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( 小学校のグランドで逆ハン 友人にキャノネットで撮ってもらった )

授業中は逆ハンのイメージと、バイクの改造プランが浮かんできた。

そして小学校からライフワークである授業中の乗り物の絵は私の学校生活の中核をなすものだった。

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( YC1175ccをツイン化した理想のバイク。350の低速トルクは乗りやすかったことだろう )

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( YD1のつもり )

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( RD56に大好きなアサマタンクを付けてみた )

優等生だった姉が私の教科書を見て、どのページにも必ず絵が描いてあることに心底驚いていた。

当然のことの成績の急降下、先生は脳に障害でも及んだかと思う程の。。。面談を受けたが頑張りますと煮え切らない私だった。

そのころから同級生は一流大学を目指しガリ勉の時期だったから順位ときたら目も当てられない状況だった。

高校入試から一学年までの瞬間風速は何だったのかは自分でも解せない。そうして先生や親を落胆させた私だが後悔はしなかった。

それほどバイクに魅了されたのはもう一つ、体育は評価一ぐらいなのにバイクだけは人並みに乗れ、自分を見直すことになったからだ。

鉄棒も跳び箱も全くチャレンジしないくせに、バイクではジャンプにチャレンジできたのは我ながらなんだろう。

バイクは幼少からの劣等感から私を救ってくれたのだと思う。そして結果バイクメーカーに就職し、バイクは私の人生を支えてもくれたのだ。

もしバイクにのめり込まず、学業に専念したらどうだったろうか。最高の結果をだせてエリートコースに乗れたとしても、たぶん私の闘争心のなさが邪魔をしたと思う。

信念の人というまでになれない私に、高度な判断をせまられるㇷ゚レッシャーに勝てたかどうか。。

物理は得意だったから学者や研究者には憧れたがそれは天才の領域になる。

いまという結果が良しと思えるならば、そこに至る過去はすべてが容認される。たとえマイナスの出来事があったとしても、それは未来の布石だったということになる

わたしが辿ったこの軌跡の偶然と幸運に感謝したい。

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執筆者: kazama

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